ていうコズミックフロントのシリーズで、シュレ・ディンガー先生が量子力学を解説してくれていたので、改めて量子力学を考えてみますた。
- 小さな微粒子の領域になると、運動量を観測すると位置が特定できない。位置を観測すると運動量を特定できない
- 微粒子は、粒子と波動の両方の性質を持つ
- 存在確率しか語ることができないので、様々な状態の重ね合わせとして表現される。
そんなバカな
従来の物理学の常識からすると全く当てはまらない不思議な学問なわけで。で、多くの人の直感からしてもこんな理屈が成立するわけはないということで、様々な反証が行われてきました。例えばシュレーディンガーの猫とかね。箱に封じた猫が、行きている状態と死んでいる状態の重ね合わせであるわけがないじゃないか!と。でもね。私思ったんですよ。この世界を俯瞰ですべて観測できる観測者っていなくって。すべての人はこの世界の中で活動している、自分が観測できる範囲の世界しか認識できないってこと。
何が言いたいかというと
宇宙は138億年前にビックバンでスタートし、銀河系の端っこにある太陽系の第三惑星地球に我々は存在し、地球は丸く、 日本の外には別の地域が存在しそのごく一部に我々は行きているという客観的な事実はあるのかもしれん
が
残念ながら我々はそれを知覚できないということ。地球が丸いかもわからんし宇宙の果が138億年先にあるのかどうかもわからん。銀河系も見たことなけりゃ、下手すりゃ日本の外に世界が広がっていることすらわからんかもしれん。
つまり、量子力学とは客観的な事実ではなく、観測者からみた見え方であるので、観測者(すなわち私ら個人個人)からすると、自分が観測した世界以外のものは、単なる知識で知ってはいるけど、個々にとっての存在は確率的であるということ。例えば、私と足元にいるアリを同時に観測できる他者からすれば、両方共存在するものとして見えているのだろうが、足元のアリを観測していない私からすれば、居ないも同然。いや、もしかしたらいるかもしれんが、「私の世界には」確率でしか存在していないということ。
主観的に見た場合、自分が見たもの以外は居ないも同然である。
至極当たり前な理屈である。
冷たい言い方かもしれんが、私の地面の反対側にも国があり、今この瞬間生活をしているんだろう。でも私は知覚できない。それは私からすると居ないも同然なのである。
逆に言えば、地球の裏側にいる人からすれば、私のことなど知ったこっちゃない。
そう考えたら、量子力学って、「なんだ、当たり前のことじゃないか」と思えてくるから不思議である。偉い先生が複雑な数式をこねくり回して導出した理屈って、難しく考えないと簡単なことなのかもしれん。それのいい例は、嘘つきナポリ人のパラドックスですな。
さて、人から聞いた理屈で、われわれは宇宙の構造が想像作られておりますが、もしも観測の結果が違ったとしたら。いや、実は世界は存在する人間の数だけ存在していて、その彼らの観測結果で全く異なる世界が存在していたとしたら。なんて考えたら
四の五のいわれようと、私の世界は私だけのものである
いい意味で、自分が納得できる世界を観測してしまえさえすればよい。そんなご都合主義でこの世の中は出来上がってるんだよ、ということを示唆してくれる理論と私は理解したい。