この慈悲的差別というキーワード、非常に面白かった。なるほど、確かにそうである。
もしも、本当に男女平等であるならば、区別すら存在しないので、「レディースデー」とか、「男性向けXX」「女性向けXX」とかすら存在しないはず。でも、実際に存在し、それが需要があるということは、この慈悲的差別を彼ら(彼女ら)が欲しているということであると思う。平たく言うと
自分に都合がいいことは要求する
という事なだけだろうと。ただ、実際、男性と女性って、体の機能も特徴も違うわけで。男はもともと男性ホルモンの影響で、体も大きいし、力もつよい。女性は妊娠するという機能もあるし、生理もある。が、男は当然その機能がない。物理的に埋められない壁は絶対的に存在するわけで。
さて、だから差別は存在していいのではと思うわけです。差別というとビットが立つので、向き不向きと言おう。向き不向きでいえば、同じ性別でも存在するわけですし、性が違えばなおさらである。ということを受容すべきではなかろうかと。
ええ、いいんですよ。本当に向いていて、その能力が顕著に認められる人は男女に限らずやればいいですよ。でも、差別と言われようと、実際性別的に向いていない仕事というのは、男女を問わず存在する。という事実だけは認めてもいいんじゃないかなぁと思う、おじさんでごじました。